出版体験記

『日本人が知ってはならない歴史』
『続 日本人が知ってはならない歴史』ご出版
若狭 和朋さん
朱鳥社と私
御縁(1)内田憲一氏
私の『日本人が知ってはならない歴史』(正・続)は、前社主・内田氏との出会いがなければ生まれてはいない。氏と私は共に福岡が郷里である。東京の四谷で初めて氏と会ったとき、「これはうちの社から出させてください」と氏は言い、木瓜のスティックを音を立てて噛んだ。私は前の本を出してくれたK社から出すつもりでいたので、博多の話に私はそらした。そして氏の口から博多のある地名が出たとき、私は胸を衝かれた。「縁だ」と思った。「袖振り合うも他生の縁とか、よろしくお願いします」と私。
御縁(2)羽田の別れ
大学一年生のとき、バイトで姉弟の家庭教師になった。姉は高校三年生だった。セーラー服のこの高校生は無性に野球が好きだった。大学の野球部員だった私にキャッチボールの相手を無心した。「ベースボールを野球と訳したのは誰か。調べて正解だったら相手をしてやる」と答えた。調べたらしい。「正岡子規だ」と胸を張った。「なぜ野球なのか」「??」「本名は升(のぼる)、のボールで野球だ」。童女の顔をして言った。「うち……なんか野球という言葉が好きやったん……塁球とか棒球にならずよかった」
翌春、合格とともに大学野球部のマネージャーになった。私は不機嫌だったはずだ。
私は卒業して通産省に入った。一年後に彼女は強引に私の妻になっていた。ドイツ研修を命じられ、羽田を発つときが生涯の別れとなった。私の胸に顔を埋め「行くなよぉ」と泣いた。彼女の夢は「田舎の高校の先生となり高校野球をやろうよ」だった。私は聞く耳をもたなかった。祝田橋の近くの輪禍で二十三歳の生涯を閉じた。四カ月の新婚生活だった。
御縁(3)老師・市長さん
ドイツから博多へ、そして四谷の下宿にもどった。写真がほほ笑んでいた。
岐阜の大寺の門前に私は立っていた。「三日坊主を許す」と言われ、雲水の生活は四カ月が過ぎた。寺に市長さんが来た。外務省のOBで日米開戦時の電信課長だったお方だ。「外務省と通産省なら隣同士だ……なにかの縁だ……市立高校の先生になれ……野球部も頼む」と言われた。なぜか私はほほ笑む写真を想っていた。
老師は「鹿を追え」といい、「山門を出るを許す」と送り出してくれた。
山門を振り返り合掌し、一礼して寺を出た。
全山を あげて桜の 寺に座す
私の拙い句である。老師の筆になるのが座右にある。
御縁(4)生徒たち
私は社会科の先生として「世界史」「日本史」などを担当した。教科書の程度が落ちていることに私は驚いた。同時に、イデオロギー色が目立った。ほとんどの教師が日教組だったが、いつの間にか勤務する学校は反日教組の拠点校のように目されるようになっていた。並行して私は日教組からは敬遠されるようになっていた。野球は決勝で甲子園を三回逃した。選手が泣いたが、負けずに私も泣きたかった。
高校社会科の先生の務めは「世界史」「日本史」の通史を教えることだ。「私は鎌倉は苦手だから」とそこを抜くわけにはいかないのである。高校生の多くが歴史の時間というのは日本の悪口を教えられる時間なのだと観念している。そこで「南京大虐殺」のホラを学習すると教室は静まりかえる。剽軽な生徒は椅子に立ち「日本万歳」を叫んだりして教室中を爆笑させたりした。誇らしい日本が嬉しいのだ。佐藤・近藤は苗字として藤原氏であり、渡辺は名字として源氏だと知ると、「私の先祖に紫式部がいた?」と聞き「式部」とアダ名されて、二十年経ったいまでも式部と呼ばれている生徒もいた。
拙著が御縁で東条由布子氏や渡部昇一先生など多くの方々との御縁を頂戴した。
馬齢を重ねた。しかし、名前だけは永遠に「若さ」だ。御縁に奉公したい。合掌。

全国各地で講演活動を展開中。
