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出版体験記

近藤 昌三

あこがれの「馬賊王・小白竜」が結んだ縁

 1999年、私はある中国引揚残留孤児一家三人の日本定住手続き、及びその後の生活指導を日中友好協会から委嘱された。この一家の世帯主の日本名は小日向明朗(中国名は張明樺)、もちろん日本語は全然理解できない。しかも満州からではなく、広西省チワン族自治区からの引揚げだ。他の引揚げ者の仲間に入れてもらえず、他に身寄りもなかった。
私は彼の日本名をひと目見て「もしや?」と直感した。ひょっとしてあの満州馬賊の親玉、小白竜こと小日向白朗と関係があるのではないか。この名は戦中派の我々にとって大陸雄飛の英雄であり、戦後も日本の政治の裏舞台で活躍したとされる稀代の風雲児、朽木寒三のベストセラー『馬賊戦記』の主人公として登場し、私も胸ときめかせたものだった。孤児本人に確かめ、まさにその白朗の実子であることを知った私は、彼の指導に特に念を入れた。
そして三年ほど経ったある日、日本語教室の教え子から突然の電話で、彼が癌の大手術で入院、私に会いたがっていると知らされたのだ。再会した彼は既に60歳。淋しい入院生活だった。私はかねてから抱いていた疑問、特にどうして広西省からの引揚げなのかなどいろいろ質問したかったが何しろ病室のこと、同室者にも迷惑をかける。自らの自叙伝を執筆・出版した経験から(『中国服の青春-ある商社マンの日中交流記』・1999年・中日出版社)「どうだ、君の体験を文章で書いてみないか」と勧めた。日本語ができないからと彼は一度は固辞したが、私が翻訳するという約束で承諾した。
1ヶ月ほど過ぎたある日、「じゃあ、これを」と手渡されたのは、B5判横書き用箋にビッシリと書かれた中国語文10枚ほどだった。流麗な漢字、四字成語を駆使した見事な文章は私を唖然とさせた。こうしたやりとりは2ヶ月ほど続いたが、2004年3月、病状は急変、彼はついに帰らぬ人となってしまった。彼の原稿は合計200枚、まさに彼の絶筆、遺書であり、私は図らずも彼の遺書の受取人となったのだ。
私はこの原稿を何としても翻訳出版し、彼とその父白朗の霊前に供えようと決心し、1年半ほどをかけて出版にこぎつけた。彼との約束が果たせたことに安堵するとともに、あの親子の記録を世に残すことができたことを誇りに思っている。

戦前よりの中国との縁

 こうした私と明朗一家の出会いがあり、一書を出版することになったわけだが、これももとはといえば、私が多少中国語ができ、定年後の十数年間、中国残留孤児援護や中国人向けの日本語教師としての仕事に携わることができたからだ。
ちなみに私が中国語を習得した経緯は特異である。商業学校卒業後の17歳の誕生日直後、入社した貿易商社の中国派遣委託研修生として「北京恢弘塾」に入塾。約1年間、それこそ缶詰状態で中国語特訓を受けたことに起因する。当時は大陸こそが日本の生命線であり、ソ連を大陸に入れないために、中国に行って日本を守るという考えが普通だった。こうして北京から始まった社会人生活は河北省の辺地でゲリラの襲撃に遭うなど殉職覚悟の激動の毎日ながら、中国の雰囲気、情緒、匂いを知り、多くの中国人と出会った。一度も祖国の土を踏むことはできず、研修生から中国現地駐在員、北支派遣軍陸軍二等兵、と身分も変わった。最後はシベリア抑留捕虜になる22歳までの約5年半、これこそが私の短い青春であり、私自身の人生観、世界観の根本なのである。ゆえに中国には並々ならぬ縁を感じてきた。

この縁を大切にしたい

 『馬賊王小白竜 父子二代』は、故小日向白朗氏とその実子・明朗氏親子二代にわたる中国流浪の実伝として中日、朝日、読売の各新聞社の取材を受け、「週刊朝日」には広告も載った。何とかこの本の売れ行きを伸ばして小日向一家の力になってやりたい……。だが、小白竜、小日向白朗を知る人もほとんどいなくなってしまった。時代の流れなのはわかるが、歴史の実録としてながく読み継がれてほしい。
一方で、拙訳を出版したことですっかり翻訳にはまってしまったのである。中国の連続テレビドラマの原本を手に入れ、その翻訳が面白くてやめられなくなった。中国人の本質をユーモアを交えて描いたノンフィクションなのだが、骨董屋、ダフ屋などのインチキ商売、裏取引などとても面白い。そして難しい。辞書にはまったく載っていない独特の語彙の続出で、北京の友達に『北京方言辞典』の大冊を送ってもらい、北京人老師の指導でやっと完成した。こうして次なる出版へと結実したのが『北京の子 人虫儿』だ。
出版後、日本より中国で反響があり、中国最大の国家機関紙とも言うべき「人民日報」に小生の記事が載ったのには驚いた。翻訳したのは83歳の老人だとか、うっかり転んで腰を痛めたとか微笑ましい間違いもあったが、これも北京のスター記者である著者・劉一達の威力であろうか。他にも「新華ネット」「中国ニュースネット」などマスコミが大きく取り上げてくれた。
中国の出版社社長から「劉先生はこのたびの日本語翻訳本に大満足で、その立派な出来栄えを褒めておられました。テレビ局にこの日本版『人虫儿』出版特別番組をつくらせると言っておられました」との手紙をもらい、劉氏本人からは書画の蒐集・収蔵と鑑定の世界を描いた最新作「画虫儿」の翻訳を依頼された。
中国に寄せる思いは熱いままだ。今だに中国語を読むのが日課である。「画虫儿」の翻訳にも取りかかっている。日本語に訳すと本の厚みが3倍になる。だから長編になるほど体力的な不安がつきまとう。それでも中国との交歓を末永く続けていきたい。私の何よりの生き甲斐であり、自慢であり、楽しみなのだから……。

「北京恢弘塾」時代。中国服で学んでいた著者。

「北京恢弘塾」時代。中国服で学んでいた著者。

1986年春、41年ぶりに中国再訪。交流復活を果たした。

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